下手の横好き、好きこそものの上手なれ……
日本にはそんな言葉があるように「不得意だけど好きなこと」が人にはあります。
けっして得意ではなくても、好きという気持ちがあれば続くこともありますよね。
その反対に「得意だけど好きじゃないこと」もあるんだと、最近感じました。
今までそれに向き合ってこなかったけれど……
私にとってそれは「文章」なんだと気がつきました。
文章を書くことは好きです。得意だとも思います。
「自分の文章」が好きじゃない、それに気がついてしまった話を今日はします。
目次
きっかけはある人からの文章の添削でした
最近、ある人に自分の文章を見てもらったんです。
文章にはテーマがあり、その課題に沿った原稿用紙2枚ほどの短い文章を提出しました。
私を含めた何人かの文章が、ひとつの冊子になって手元に返ってきます。
そこで、自分が書いてきた文章を、その場で自分で音読しました。
「あらためて、自分で書いたものに何か感じましたか」
そう聞かれた私は、思ったことを答えます。
「結末が気になります。上手に落ちきれていないというか、性格の悪そうな印象を持たれそうな締め方です。表現が好きではありません」
そんな私の答えを頷きながら聞いたその人は、次にこんなことを聞きました。
「この文章のいいところはどこだと思いますか」
他人がいいと言う文章に私はいいと言えない
そう聞かれた私は、ものすごい勢いで考え始めました。
いいところなんて、考えたこともなかったからです。
しばらく沈黙が続いてから私は、絞り出すようなきもちで
「手前の文は、自分がこの作品でいちばん言いたかったところで、比較で表現したことでわかりやすく、自分でも気に入っているところです」
と、言いました。
「そうですね、私もそこはとてもいいと思っていました」
そしてその人は、結末部分に関してもいやな印象はまったくない、このままの表現でいい、と褒めてくれました。
私はほっとしたのと同時に……
自分の文章への自信のなさ、ちゃんと見てあげられない、その「愛のなさ」を感じてしまいました。
思えば私は人を傷つける言葉ばかり連ねてきた
昔から私は、自分がおもしろいと思うことを、そのまま文章にしてきました。
たぶんそれは、今でもあまり変わらないところだと思います。
でも、昔はそれに比べて、暴力的、差別的な表現が多かったように感じます。
とくに、誰かを下げて、笑いをとるような、そういうものを書いてきたような気がします。
後々、そういう表現は人に好かれないということを学んできましたが……
それに気がつくのも、学生時代を過ぎたころです。
自分は、言葉によってたくさんの人を傷つけてきた。
この現実は、今もペンをもつ、キーボードを打つ私の手に重くのしかかっているんです。
授かった能力を誰かの幸せのために使いたい
そんな私がいま「明るく前向き押し売りブログ」を書いていることを、おかしいと呆れる人もいるでしょう。
そんなことをしても、自分が傷つけてきた人のこころは傷ついたままかもしれません。
私に対しての信頼なんて、ないも同然かもしれません。
それでも私は、人よりも文章を書くことに長けている自覚があります。
だとしたら私は、この能力を誰かの幸せのために使えるようになりたい。
そのために私は、基本的なことから、もっと多くの表現手段まで、知りたい。
そう考えています。
自分の文章を好きになりたい、その想いで続けてこれた
でも、けっきょくのところ、ここまで書いて感じたのは……
「人に愛される」文章である前に「自分で愛せる」文章を書きたいんだなって思います。
今日までこのブログに書いてきた文章は、まちがいなく私の文章で……
どれをとっても余すところなく愛すべき文章たちなんですよね。
今日は、私の文章を書くことに対する本音を、少しだけ書きました。
書いたいま、感じることは、やっぱりこれからも文章を書きたいなという想い。
そして少しずつでも「いい文章」が書けるようになっていきたいなと感じるのでした。
最後までお読みいただきありがとうございます。
どうぞこれからもお付き合いよろしくお願いします。
それでは、今日も元気にいってらっしゃい〜!