自分はちょっとしたことでもなんらかのカタチで書き留めたり、記録にしたりしがちな……
いわゆる「メモ魔」のうちに入るのかもしれないと、思うことが多々あります。
日常でよくメモを取ることがあるという記事は、過去にも書いたことがあります。
メモを取ることは、自分の中の引き出しを増やすことなんだと言っています。
最近「とったメモは清書するのか」ということを、SNSでお話ししました。
今日はその考え方についてもう少し詳しくお話しできればいいなと思います。
基本、とったメモは「清書しない」
これまでいろんな事柄、手段でもってメモをとってきた私ですが……
それら残したものを、あらためてきれいに「清書」することはありません。
メモを書いたら書いたときの衝動のまま。
傍目で見れば脈絡のない文字列であったとしても、そのまま。
清書をするのにも理由はあるのでしょう。
汚くて読めない文字をていねいに書きたいとか。
メモから内容を思い出すことができないからだとか。
これらのリカバーのために清書をするのだとしたら……
そもそも私はメモに対してこうした懸念を抱いていないので、清書しないのです。
接客ノートはただの「清書したメモ」ではない
唯一、仕事でつける接客の記録は、メモに残したのち……
それをもとに別のノートに記録しなおしています。
これはただ単にメモしたことをていねいになぞるために書いているのではありません。
接客ノートを作る理由は、そこへあとから調べたり接客の裏をとったりしたことを追記していくからです。
現場で接客に不足があったときほど、よりノートは充実していきます。
つまりこの接客ノートは、メモよりももっと情報として入り組んでいて……
それがきちんと整理されまとめられているものとして存在します。
「今この時点」をカタチにして見せるのがメモ
私がとっているメモは「今この時点」
見聞きしたり知ったりしたこと、感じたこと、気づいたこと……
それをそのときの印象のままに切り取ってそこに残すだけのこと。
それをず〜っと大切に、頭の中で考えていることはできません。
吹いて消えてしまいそうなことでも文字などのカタチにして見せます。
抱えた荷物を、手が痺れて感覚がなくなる前に、すぐそこにおろす感じ。
メモはきれいに書こうとせず、鮮度が高いうちに記録するのがいいんです。
メモは「いつか取り出し育てる種」が入った引き出しを作る
メモひとつを書いた時点では、大きく事態が動くこともないかもしれません。
というか、書いたもの自体には大きな意味がなかったりします。
たとえ書いたことをすっぱり忘れて生きてきたとしても……
なにかのきっかけでその「引き出し」は開かれることがあります。
そのときの感覚とちがう解釈が生まれることもあるかもしれません。
あるいは、まったく違う状況の中でその記録が活きることもあるかもしれません。
メモをとった「今」「この瞬間」を書く、それをただくり返すだけ。
ということで、私はとったメモを清書しない、というハナシでした。
可能性の「種」をそっとしまう、そんな引き出しを作っていきましょう〜。
それでは、今日も元気にいってらっしゃい!